【アンパンマンのマーチ】誰になぜ「いけ」と言われたのか

(言い訳がましいですが、この記事は電車内で考えたものをダラダラと書き綴ったものほぼそのままなので、全体的にまとまりのない文章になっています。)
アンパンマンのマーチは戦争に関する歌で、戦地に赴く者に対する歌だと言われることがある。しかし、それは逆で、戦地から帰らせる歌ではないかと思うのだ。
実はアンパンマンのマーチには、非常に重要な人物の描写が抜けている。それは、アンパンマンに対し「何のために生まれて何をして生きるのか」、「何が君の幸せ」なのかを問い、「行け!みんなの夢守るため」と命じた人物、すなわち「君」に対する「僕」だ。
「僕」は一体何をしていたのか。一つの考え方は、「僕」は「君」の家族や仲間で、戦地へ行く「君」を見送っているというものだ。「君と行こう」ではなく「君は行け」だから、「僕」は行かずに「君」だけが行くと考えられるわけだ。
しかしそう考えると、「僕」は「君」に守ってもらう魂胆だったことになる。実は「君は僕達を守るために生まれて、僕達を守るのが君の幸せなんだ。だから行け。」と言っていたわけだ。先程の考え方をするならば。
ところで、「行け!みんなの夢守るため」の前には、「ああ、アンパンマン、優しい君は」とある。先程も述べた通り、「君は」というからには、他でもない「君」でなければならない。しかも、「君」は誰でも良かったわけではなく、アンパンマンでなければならなかったのだ。アンパンマンでなければならない理由は一体何だったのだろうか。
アンパンマンの最大の特徴というと、おなかをすかせた人々に食べ物を配っていることだ。
一方、アンパンチもできる。アンパンチしに行くということは、戦いに行くということだ。実際戦いに行く場面は多々ある。
しかしアンパンマンにとって最も重要なのは食べ物を配ることだ。
そこで、最初に述べた「戦地から帰らせる歌ではないか」という主張だ。つまり、「僕」は戦地に残るから、「君」はみんなを助けに帰れということだ。
歌詞についてもう少し詳しく見ていこう。
「僕」はアンパンマンに対し、「何のために生まれて何をして生きるのか」と問う。
ジャムおじさんは「生きてるパンを作りたい」と言っていた。ジャムおじさんにはアンパンマン号という強力な兵器を製造できるほどの軍事力がある。戦うパンなんか作る必要はなかったはずだ。ジャムおじさんが生きてるパンを、自発的に食べられに飛び回る食べ物を作った理由は、アンパンマンが何のために生まれたのかという理由は、人々の空腹を満たすためだ。
続いて、「答えられないなんて、そんなのは嫌だ」とアンパンマンに語る。
アンパンマンが毎週テレビでアンパンチしているのを見て、こんな暴力的なのはアンパンマンじゃないと思った人もいるはずだ。人を助けたいと言いつつ実際にはアンパンチで誰かを傷つけている、そんなアンパンマンが「食べられるために生まれてきました」なんて答えられるはずがない。そんな答えられない状況に対して、「嫌だ」と言っているわけだ。
「今を生きることで熱い心燃える」、死ねば当然熱い心は燃えない。
「だから君は行くんだ」、戦地から他の場所へ行けば、その戦いで死ぬことはない。しかし「僕」は、何度も述べたようにその場に残るので、死ぬかもしれない。
「微笑んで」、「僕」が死ぬかもしれないというのに微笑んで行けと命じている。戦っているアンパンマンの顔は険しく、アンパンを配るアンパンマンの顔は優しい。険しい顔はもう終わりにしようということだ。
「そうだ、嬉しいんだ、生きる喜び。たとえ胸の傷が痛んでも」、「胸の傷」が肉体的なものではなく精神的な傷みであることは言うまでもなかろう。悲しみ、苦しみに耐えてでも得るべき「生きる喜び」があるのだ。
「ああ、アンパンマン、優しい君は、行け!みんなの夢守るため」、やはり残酷な歌詞だ。優しければなおのこと「僕」のために行けないはずなのに、優しいからこそ「みんな」のため行かねばならない。「僕」のことはいいから、「みんな」のため「君」は行けということなのだ。
では二番はどうなっているのだろうか。
「何が君の幸せ?何をして喜ぶ?」と問う。そして「わからないまま終わる、そんなのは嫌だ」と続く。
アンパンマンは自分の幸せや喜びがわからないまま終わろうとしている。むしろ、戦いの中で見失っているのだろう。「僕」はその「幸せ」、「喜び」を思い出してほしいのだろう。
「忘れないで、夢を」、そう、アンパンマンにも夢があったはず。それを忘れないでほしいのだ。
「こぼさないで、涙」というのは、おそらく「僕」との別れについてのことなのだろう。
「だから君は飛ぶんだ、どこまでも」、ここで、かなり新しい歌だが『ドレミファアンパンマン』の歌詞を思い出してみよう。
アンパンマンは毎日休まずパトロール。泣いてる人たち助けるためだよ」と『ドレミファアンパンマン』にはある。アンパンマンは毎日のパトロールの中で、こんなところまで行くのかと思うほど意外な場所にも訪れる。その場所には決まって泣いている誰かがいる。そう、「どこまでも飛ぶ」というのは、限りなく遠くまで飛んで行くということではなく、泣いている人がいる限りどこへでも飛んで行くということなのだ。
「そうだ、恐れないで、みんなのために」、もうわかると思うが「みんな」のためであるからには「僕」のためではない。すなわち、「僕以外のみんなのために恐れるな」ということだ。もっと言うと、「みんなのために僕を見捨てることを恐れるな」ということだ。
「愛と勇気だけが友達さ」、私は、そしておそらくあなたも、これは“アンパンマンに”愛と勇気だけしか友達がいないと思っていた。
だが本当は違う。アンパンマンは時々誰かと友達になる約束を交わすし、約束など交わさずとも友達関係は幅広い。ならばこの歌は嘘なのか。
そうでもない。愛と勇気だけが友達なのは、アンパンマンではなく「僕」だったのだ。
アンパンマンの交友関係は広い。「僕」も友達の一人だったに違いない。だから、だからこそ、わざわざ「愛と勇気だけが友達さ」などと言ったのだ。
アンパンマンは「みんな」のために「僕」を見捨てなければならない。だが友達である「僕」を見捨てられない。だから、こちらから縁を切ったのだ。「僕には愛と勇気しか友達がいない。だから君はもう友達じゃない。友達じゃない僕は放って君は行け」ということなのだ。
そして最後になる、三番はどうだろうか。
「時は早く過ぎる、光る星は消える」、「時」はともかくとして、「星」は何なのだろうか。
これについては、「人」だとか「命」だとか言われている。このあたりは命の星という設定とも合致する。では、誰の命なのか。アンパンマンか、「僕」か。
私の考えでは、いずれでもない。星の数ほどいる、餓えた人々だ。
この歌はこのあと、「だから君は行くんだ」と続き、更にそのあとには「たとえどんな敵が相手でも」という歌詞が来る。光る星が消えるから行くのだ。それも、普通では考えられない敵を相手にするために。
アンパンマンは食べさせるヒーロー。食べさせることでしか倒せない敵、それは飢餓だ。
アンパンマンは誰かの野望、言い換えれば夢を打ち砕きに行くわけではない。夢を叶えるでも壊すでもなく、ただ守るために行くのだ。飢餓という途方もない敵から。
アンパンマンはそうあるべきだし、「僕」はそれを望んでいる。そういう歌なのだ、アンパンマンのマーチは。