知識移動とビンのワイン

何に対して書いたのかは忘れたけどこんなのを書いたことがある。おそらく「ビンのワインを別のビンにつぐよう」に誰かの持っている知識をそのまま覚える学習について書いたものだと思う。

単なる知識移動の学習は正直言ってつまらないと思う。それに対して考えることは楽しい。だけど疲れる。だからたとえつまらなくても楽な知識移動の学習のほうに教える側も教えられる側も逃げてしまうのだと思う。しかし、だからといって授業を知識移動から考える授業に変える必要は必ずしもないと思う。知識移動を「ビンのワインを別のビンにつぐようなもの」と例えていたが、考えることはいわば自分のビンのワインを熟成させるようなものであり、自分のビンのワインを熟成させるためにはビンが空であっては意味がなく、先立ってワインを入れなければならない。確かに、原料からワインを造ることは不可能ではないが、それでは時間がかかりすぎてしまうことが多い。これは知識をワインに例えたものであるが、既にあるビンのワインは先人たちが考え、築き上げた知識であり、この知識は一人で何万年考えたって造り上げることはできない。それを、自分のビンにつぐだけで、数年間知識移動の学習をすることで手に入れれば、すぐさま次の段階へ熟成させることができるのではないだろうか。だから単なる知識移動の学習には充分な意味があると思う。そして、知識移動は知識移動でも、これ以上熟成できない単なるうんちくよりも、まだ考え、熟成する余地のある知識が必要だと思う。